580
罰 

581罰はいけないのか
罰はいけないのか

  本当に罰はいけないものなのでしょうか?
昨今、社会は厳罰化に進む傾向にあるのに反して、教育の場では、「罰を与えることはいけないこと」であって、「罰を用いないことが良いこと」であるかのように、広められてしまっています。

罰は悪いものと決めてかかって、罰を頭ごなしに否定するのではなく、その功罪をきちんと客観的に検証し、罰の正しい使い方、上手な使い方を学んでいくことが何よりも大切です。

「罰」というのは、「薬」に非常によく似ていると思っています。
用途に応じた薬を、用法、用量を適切に使用すれば相当の効果がありますが、 効果の反面、副作用のあるものもあれば、また誤った使い方をすれば毒にもなります。そして概ね、効果と弊害は比例します。
また、薬には比較的、安易に使っても問題のない大衆薬というものもあれば、 医師の処方のもとに使用する要指示薬、あるいは使用を厳密に定められている劇薬といった分類がありますが、「罰」にもある意味で同じような分類ができます。

ほとんど誰にとっても、罰は嫌なものでしょう。
一部の行動学者が言うように、本当に罰がいけないものであるのならば、私たち人間社会そのものから、罰は無くなっているのではないでしょうか。しかし罰は、私たち社会の規範を維持する上で不可欠なものあり、罰がいけないものであるわけがありません。
罰を否定する人が多くいますが、そうした人は、実は自分たちが、罰によって守られていることに気が付いていないのです。
そもそも罰の是非を論じる際に、とかく「罰を受ける側は、加害者である」という、根幹的な事実の認識が軽視されがちです。
罰は加害者に与えられるものであり、その罰を否定するということは、加害者の人権にのみ配慮し、被害者の人権をないがしろにするものであります。

具体的な加害は個々の場合によって違いますが、そのほとんどが他者の権利を侵害しているのです。
殺人であれば、当然に殺した相手の生きる権利を奪っているのですし、授業中に騒ぐ子供は、級友の授業を受ける権利を侵害しています。
他人の権利を奪った者の権利ばかりが、必要以上に保護されることは平等とは言えなくなります。
さらには、罰は再犯の戒めだけではなく、被害者感情の軽減という要素も持ちます。
すなわち、罰には「罰することにより許す」という側面があるのです。

当然に、罰すること無しに許されるのであれば、「悪さをした者勝ち」、「被害者泣き寝入り」、もしくは「報復の連鎖」の社会になります。
罰が無くなったときに、罰が無くなったことによって得をするのは誰なのかを考えてみれば明らかです。
罰を受けるに値する行為を多くする人ほど得をするのです。

規則が無くなれば、何をしても良い、強いもの勝ちの弱肉強食の社会になります。
そして罰が無くなれば、規則を守る人だけが損をする、悪い事した者勝ちともいえる無法者の天下となります。
実は、規則や罰は、善者や弱者を守るものでもあることを忘れてはなりません。
となれば、罰の使用を躊躇する理由として挙がるのは、「自分にその資格があるのか」ということなのでしょう。
しかし、犬を罰する資格云々ではなく、罰してでも犬に教え込む責任があるのです、飼い主なのですから。




 前のページに戻る  教本TOPページへ  次のページに進む








いずみ愛犬訓練学校教本          copyright©1991 いずみ愛犬訓練学校 all rights reserved